その声で星が揺れる

クソデカ感情ポエムの矛先

いのちの「最果て」で、ふたり

初めてブログを書くので、どうぞお手柔らかに。


「フィッシュストーリー」からはじまり、1stアルバム「quantum stranger」そして1stEP「my blue vacation」を経て「エピローグ」で締めくくられた、アーティスト斉藤壮馬さんの1.5章。

今までは思ったことをTwitterでぽつぽつ、と断片的につぶやくだけだったのですが、フォロワーさんのなかにはブログを書かれる方もいて。
いつも楽しく拝読していて、すごいなあ、わたしもやってみたいなあ、と常々思っていたこともあり、ようやっとブログを開設しました!わあい!

ということなので、「フィッシュストーリー」~「エピローグ」という一連の作品群について、感想以上考察未満ではありますが、つらつらと綴っていきたいと思います。
あくまでもいち個人が感じたことですので、こんな考え方の人もいるんだなあ、くらいの気持ちで読んでいただけると幸いです。
では、さっそく本題へ。

物語の「軸」となるもの

デビュー曲「フィッシュストーリー」から、先日配信限定でリリースされた最新曲「エピローグ」まで、シークレットトラックや既存曲のアレンジver.なども合わせると、全26曲。
そのすべてがそれぞれに物語性をもち、ストーリーテラー斉藤壮馬の目線から語られている。
その中でも、「フィッシュストーリー」「ペンギン・サナトリウム」そして「エピローグ」。
ここでは、この3曲が「アーティスト斉藤壮馬の1.5章」と銘打たれた物語たちにおける大きな軸である、と仮定する。
そして今回は、主にその3曲の関係性について考えていきたい。


「フィッシュストーリー」

登場人物は「君」と「僕」。

1078号室 病室の部屋の中
起きてはまた寝て 退屈そうに窓の外を見てた *1

「君」は、1078号室で生活をしている。
病室でほぼ寝たきり、なにか安静にしておく必要のある病を患っているのだろうか。

偶然そこで出会った二人って もはや運命かな
君の代わりに外の世界を話してあげよう *2

そんな「君」と偶然出会ったという「僕」。

全然眠れない そんな夜更けには
ちょっと抜け出して 屋上に咲く声ふたつ *3

「僕」も「君」と同じ場所で生活している。
ということはつまり「僕」も何かしらの病を患っていると考えられるが、病室のベッドから外の世界を眺める「君」を見ている描写があることから、「僕」の抱えているものは「君」のそれよりは軽度のものなのだろうか。
自由に外の世界を見に行くことができない「君」の代わりに「僕」が、外の世界について話してあげよう。
たとえそれが他の誰かに小馬鹿にされるような作り話でも、「君」が笑顔でいてくれるのならなんだって構わないから。
今日も世界中に転がっている汚い言葉に魔法をかけて、純粋でピュアな何も知らない「君」を綺麗な嘘で喜ばせるよ。
フィクションであっても覚悟をもって*4、「君」に言葉を伝えよう。


「ペンギン・サナトリウム

登場人物は「ぼく」と「きみ」。


ここでは、この楽曲は「フィッシュストーリー」における「君」の目線で描かれた物語であると考える。
つまり、

「フィッシュストーリー」の「君」=「ペンギン・サナトリウム」の「ぼく」
「フィッシュストーリー」の「僕」=「ペンギン・サナトリウム」の「きみ」

ということだ。


歌詞に「氷の街」「よちよち歩き」といった言葉が散りばめられていることから、
”翼があるのに飛べない鳥であるペンギン”と、”サナトリウムにいて自由に外の世界を見に行くことができない「ぼく」”を重ねあわせていることがわかる。

雨降る夜の病室でいつでも独り、夢を見ていた「ぼく」。
そして「ぼく」の前に現れた「きみ」もまた、いつでも独りで。
そんな「きみ」は「ぼく」に笑って、と言い、外の世界のことを話してくれる。

ここは
たぶんにせものなんだ
きっと
明日起きたらきっとね
それでも
よちよち歩きだって
魔法のような夜さ *5

「ぼく」は、「きみ」が話してくれることが嘘(=にせもの)であることを、何となくだが分かっている。
夜が更けて朝がくれば、魔法が解けてまたベッドの上で過ごす一日が始まることも。
それでもせめて、今だけは。
夢を見て、外の世界をその目でたしかめて、街を出て・・・
「ぼく」らはいつでも独りだけど、さみしくはないよ。ペンギンみたいに飛べない鳥とおなじ気持ちでふたり、歌うから。
1078号室には、今夜も七色の虹がかかる。


「エピローグ」

登場人物は「ぼく」と「きみ」。


「ペンギン・サナトリウム」から視点が変わり、

「フィッシュストーリー」の「君」=「エピローグ」の「きみ」
「フィッシュストーリー」の「僕」=「エピローグ」の「ぼく」

となる。

何ごとも”永遠”ではなくて、いつかはかならず”終わり”がきてしまう。
「ぼく」とサナトリウムで偶然出会った「きみ」との旅もまた、その運命の渦中にある。

ねえ 気づいてる?
ふたりは 共にこの身朽ちかけ
エンドロール後の闇を
前向きに進みはじめてる *6

ふたりの死によって、魔法のような日々は終わりを迎える。
ひとの一生をひとつの物語とするならば、エンドロールは人生を振り返る走馬灯、といったところだろうか。
つまり、「エンドロール後の闇」というのは死後、また新たな命に転生するまでの間のこと。
その時間を前向きに歩みはじめたふたりには、きっと来世のはじまりが近づいているのだろう。

ねえ それはそうと
次会えるなら どんなかたちでだろうな
心配 ないよ きっと
すこし永めに眠るだけさ *7

最果てまで歩いていたら
きみがさみしそうに笑った
しめやかに 雨が肌を濡らしたんだ *8

今世のいのちの「最果て」まで、共に歩いたふたり。
「永めに眠る(=永眠)」や「しめやか(葬儀が営まれているようすを描写することが多い言葉)」など、死を連想させる言葉がこの辺りの歌詞には見られる。
「きみ」がさみしそうに笑うのは、生まれ変わることが今世でのふたりの別れになるからだろうか。
そんな「きみ」に対して「ぼく」は、心配ないよ、どんなかたちであろうとまた会えるよ、と、かなり前向きに語りかけている。

ねえ そろそろかなあ
なにして遊ぶ? 答えずに佇んでる
きみは なぜか どこか
ここにはいないような眼をしている *9

「ぼく」が語りかけるも、どこか上の空な「きみ」。
どうやらそろそろ、「きみ」が転生することによる、ここでの別れが近づいているのだろうか。

ねえ 白昼夢の中
じゃれあったね 氷の上 裸足で *10

ただの夢ではなく「白昼夢*11」であることや、「氷の上」という言葉が「ペンギン・サナトリウム」を彷彿とさせることから、この部分はふたりが生きていたときのことを回想していると考えられる。

最果てまで歩いていたら
きみがうれしそうに笑った
なんでかな ふいにときが 止まったんだ
風が吹いてまたたいたら
きみはもう気配だけ
それじゃ、ばいばい?
やだ *12

うれしそうに笑った「きみ」。
ふと風が吹いて瞬きをしたら「きみ」の姿は消えて、気配だけが残っていた。
それを見て「ぼく」は、「きみ」との別れの時がきてしまったのだということを、いやでも理解してしまう。
この描写はあまりにも儚くてせつないものだが、「ぼく」が最後に目にした「きみ」が心から笑っていたことが「ぼく」にとっての救いであり、ふたりの物語が来世へとつながる希望であるとわたしは感じた。
そして、先ほどまでは転生することに比較的ポジティブな感情を抱いているように見えた「ぼく」が、ここでは「やだ」と本音をこぼしている。
この部分にどうしようもなく人間味を感じ、非常にぐっときたという方も多いのではないだろうか。このブログの筆者もその一人である。

さあ 黄昏のファンファーレだ
この悲喜劇こそカーニバル 舞いあって
薄紅にけぶるかな
エピローグのその先へ
光が 花になっていく *13

ここで「黄昏」「薄紅」といった色を連想することのできる言葉がはじめて出てくる。
また、「ファンファーレ」「カーニバル」といった祝福ムード漂う言葉や「エピローグのその先へ」から、この場面で「ぼく」は転生へと向かっていることがわかる。
躍動感のあるストリングスからは、溢れんばかりの生命力を感じとることもできる。

最果てまで歩いていたら
影がまぶしそうに笑った
しめやかに 雨が肌を包み込んでいく
幕が下りた芝居ならば
新しいプロローグへ
それじゃ、また
会おう
会おうよ *14

自分よりも先に生まれ変わって消えてしまった「きみ」の実体はもういないけれども、確かにそこにいたことを証明するかのように揺れる影が光に照らされて、そのまぶしさに目を細めたように見えた。
今世でのエピローグを終え、そして新しいプロローグ、来世のはじまりへ。
心配ないよ、どんなかたちであれ、「きみ」と「ぼく」はきっとまた会えるよ、会おうよ。

ストリングスのみの切ないイントロからはじまり、明るく爽やかで救済すら感じられる壮大なアウトロでクライマックスを迎えるというこの曲の展開は、何度聴いても心を揺さぶられる。本当に・・・良すぎる・・・(語彙の限界)

「エピローグ」アウトロ後

まだ!!!この記事は終われない!!!
ここからは、「エピローグ」が感動的に締めくくられたあとに聴こえる雑踏に思いを馳せていきたい。
街の雑踏は6:13から聴こえはじめ、トラックが終わる6:27までのおよそ14秒間にかけてフェードアウトしていく。

だが、それだけではないのだ。

わたしのTwitterのタイムラインには天才が数多くいるのだが、そのうちの一人が、
「6:20あたりで、人間の息遣いのような音が聴こえる」
というのだ。気になって確認してみると、なるほど確かに人間が息を吸って吐く、いわゆる深呼吸をしているような音が聴こえたのだ(何それマジかよ!と思った方は、ぜひ今すぐ聴きにいってほしい)。
さらに言うとそれは6:17あたりから次第に足音が近づいてきて、深呼吸をしたのちに走り出す足音が遠ざかっていく、という一連の動作を感じさせるようなものだった。

この深呼吸は、いったい何を意味しているのだろうか。
このことについてはじめて知った当時のわたしは、最果てまで歩いた「ぼく」がいったん立ち止まり、そこからまた新たな希望へ向かって歩き出したのだろうか、と解釈していた。
しかし、この記事を夢中で書き、ラストスパートに差しかかっている現在のわたしには、生まれ変わった先の来世を生きる「ぼく」が、おなじく転生し来世を生きている「きみ」をたくさんの人が行き交う街中で見つけて、走り出しているようにも思える。

みなさんの中のふたりは、いったいどんなエピローグを迎えたのだろうか。ぜひ、いろんな人の解釈を聞いてみたいものである。


最後に

アーティスト斉藤壮馬さんの作品について自分が感じたことをなにか記録に残したい、という一心でブログを開設してPCに向かい、今こうして記事をひとつ書きあげられたことに内心ほっとしています。
この記事を読んでくださったあなたに、すこしでも有意義な時間を過ごせた!と思っていただければ幸いです。
ブログを書くのがはじめてだったもので読みづらい部分もあったかと思いますが、これからもなにか書きたいことができたときにゆるりと更新していければいいなと思っておりますので、ぜひよろしくお願いいたします!
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

*1:斉藤壮馬の楽曲「フィッシュストーリー」より

*2:斉藤壮馬の楽曲「フィッシュストーリー」より

*3:斉藤壮馬の楽曲「フィッシュストーリー」より

*4:斉藤壮馬石川界人のダメじゃないラジオ #38内での斉藤壮馬の発言より

*5:斉藤壮馬の楽曲「ペンギン・サナトリウム」より

*6:斉藤壮馬の楽曲「エピローグ」より

*7:斉藤壮馬の楽曲「エピローグ」より

*8:斉藤壮馬の楽曲「エピローグ」より

*9:斉藤壮馬の楽曲「エピローグ」より

*10:斉藤壮馬の楽曲「エピローグ」より

*11:非現実的な空想。また、現実から離れて何かを考えている状態。コトバンクWikipediaより引用。

*12:斉藤壮馬の楽曲「エピローグ」より

*13:斉藤壮馬の楽曲「エピローグ」より

*14:斉藤壮馬の楽曲「エピローグ」より