その声で星が揺れる

クソデカ感情ポエムの矛先

そのリキュールは、甘かったのだろうか

斉藤壮馬さん!
2ndEP「my beautiful valentine」発売おめでとうございまーす!!!

こんにちは。こちらではお久しぶりです。
久しぶりにブログを書くもので緊張しておりますが、お手柔らかにお願いいたします^^

「my beautiful valentine」リリースが決定してからというもの、もうずっと心待ちにしておりました。未来の約束された供給こそ、オタクが今を生きる糧。

みなさんもう聴かれましたか?
まだだよーという方はこの記事を読む前に聴いてください!!!!マジで!!!!

なんといっても、この記事には
「my beautiful valentine」に収録されている楽曲の内容やアートワークなど、すべてに関するネタバレが大いに含まれます。
なのでまずは楽曲を聴いてから読んでいただくといいんじゃないかなと思います。

あっ!こんなところに「my beautiful valentine」をはじめとした斉藤壮馬さんの音楽作品を聴けちゃうリンクが!!
bit.do


閑話休題

手元にやってきたCDをどういう風に味わっていくのかは本当に人それぞれだと思いますが、わたしは「斉藤さんの音楽をはじめて聴くときには、歌詞カードを見ずに耳だけで味わう」ということを自分ルールとしています。
2周目以降は歌詞カードを見て、こんなこと言ってたのか!こういう世界観だったのか!となりながらより深めていく、という感じです。

ひとまず1周聴き終えて、それからしばらく放心してしまいました。
たくさん思うことがあるはずなのに、脳内ですらそれを言語化できてないみたいな状態。
「良すぎてなんも言えねえ……ちょっと待ってくれ……俺に時間をくれ」というアレです。

今まででいちばん、咀嚼するのに時間がかかったんじゃないかなと思います。というか今も絶賛咀嚼中なわけで。
そう、わたしは今、半ば「いっそのこと書き始めちゃえば言語化できるんじゃね!?」という思考のもとにキーボードを叩いているのです。


まずはじめにEP全体を通した感想を言ってしまうと、人間の核のような、根源的な部分に、深く潜るようにじわじわと迫っていく、みたいな……そういうものが漠然と思い浮かびました。
それゆえか、全体を通してそこはかとなく死の香りが漂っているような。あとわたしはちょっぴり性も感じました。
やっぱり言語化むずかしいやないかい!

アートワークについても、最初はモノクロに映えるすこし暗めの赤、めっちゃかっこいい!おしゃれ!くらいにしか思っていなかったのですが、全曲聴き終えてから改めて見てみるとその赤が血のように思えたり思えなかったり。
赤い風船が逆さまなのもまた不穏でね~。

それから、楽曲から醸し出される闇とはなにも曲調だけじゃないのだということに改めて気づかされたEPでした。
わかりやすく曲調からして暗い、というものより、曲自体の耳ざわりは良いけど言ってること結構エグくない!?というもののほうが多かったように思います。
わたし的には「ラプソディ・インフェルノ」「ないしょばなし」「(Liminal Space)Daydream」「幻日」はそちら側かなーと。
こういったギャップみたいなものも「そまみ」の一端を担っているのではないだろうか。一筋縄ではいかない……だがそれがたまらんのだ……。

この曲がいちばん好き!というのが今回は全然決まっていなくて、この先聴き込めば聴き込むほど全部の曲が株を上げていく一方だろうからもうたぶん一生決まらないとは思うのですが、歌詞がいちばん好きだなと思ったのは「ないしょばなし」でした。

というわけでここからは、「ないしょばなし」を聴いてわたしが感じたこと、考えたことをつらつらと書いていきます。
あくまでいちリスナーの主観による感想、解釈ですので、こういう発想もあるのか~と肩の力を抜いて読んでいただければと思います。

もてあましている 何もない日々
終わって後悔?
さらさらしてないね

今まで何もない日々を持て余していた主人公だったが、何らかの出来事をきっかけにそれは幕をおろすこととなる。
しかし当の本人はというと、そのことについて全く後悔していないようだ。

あやまっている そんなこと
解っているよ
だからなんだってんだい

ひらがな表記の「あやまっている」、いろいろな解釈ができる。
わたしは誤っている、だろうか?と考えた。
平凡な日々が終わるきっかけとなった出来事は「誤っている」こと、つまり主人公は何らかの、世間一般に間違っている、してはいけないとされていることをしてしまったためこの現状に至っているのでは?と。
そして主人公は「自分がしたことは、してはいけないとされていることだ」ということを頭で理解はしているが、「だからなんだ」と言っているあたり納得はしていないといったようす。

「わかる」って、そのままひらがなにしたり、「分かる」「判る」など表記のしかたに種類がありますが、「解る」としているところにこだわりを感じました。
ほかの表記よりも、より"頭で理解している"感が出るというかなんというか。

「わかる」自体にいろんな意味があって、それを全部カバーできるのが「分かる」という表記。
その中でも特に、物事の内容や理論がはっきりとわかるというときには「解る」を、事実がはっきりとわかるというときには「判る」を使うのだそう。
今回は前者であるから、それをしてはいけないという理論は理解してるよ、といった感じだろうか。


※ここから先はわかりやすさを考慮して、実際の歌詞とは順序が前後することがあります。ご了承ください。

正常の意味を
辞書で引いたら
きれいな怪物が嗤っていた

意味を辞書で引くということから、主人公は多少なりとも「正常っていったいなんなんだ、どういう意味なんだ」と思っていることが汲みとれる。もっと言えば、自分はその「正常」の枠には入っていないのかもしれない、とも。
そして実際に調べてみると、そこでは「きれいな怪物」が嗤っていた。

正常な人とは、いったいどんな人のことをいうのだろうか。
そういうことを一度でも考えたことがある人は、この主人公だけに留まらずたくさんいるだろうと思う。
普通ってなんだろうと考えたことは、わたしにだってある。
誰が定義したのかすらわからないそのレッテルは、それでも人間のあるべき姿だとして今もこの世に鎮座し続けているように思う。

正常の意味は、「他と変わったところがなく、普通であること」。
みなと同じであること、「正常であること」こそがきれいな人間の姿であると、そういうことなのだろうか。
しかし先ほど、自分がしたことが世間一般に間違っているという事実を「だからなんだ」と一蹴していた主人公にとって、「正常」という概念は苦々しいものでしかないように感じる。

正常であるとされている人間は、上っ面はきれいにしているように見えるがとても得体の知れるものではなく、主人公からすれば「きれいな怪物」に見えている、ということなのかも。
そしてそれが、お前はみなと違うから正常じゃない、おかしい人間なんだとこちらを嘲り笑っているように思えるといったところだろうか。

なんか……切ないなこれ……
主人公は自分が周りとは違うことをわかっていながら、それがなんだってんだ!って思ってるわけだね……
人と同じであることがよしとされている環境においては、自分は人とは違うなんてこと、自覚してないほうがきっと生きやすいだろうし知らぬが仏じゃないですか。
でも主人公には「世界のものさしに従えば自分は異常なんだ」という自覚があって、普通でいること/いないことの間で葛藤している。
その葛藤があらわれている主人公の行動のひとつが、正常の意味を辞書で引いてみること、なんじゃないかな。

愛情の機微を
炭酸で割ったが
飲み干せない

機微というのは、表面上は読みとれない感情の繊細な動き。
心の機微とか感情の機微とかはよく耳にするけれども、「愛情の機微」は個人的になんとなく新鮮な響きがした。
心の、とか感情の、よりも限定的なニュアンスを感じさせる。いろいろある感情の中でもとくに愛情にフォーカスしている、みたいな。

なんでも、お酒を炭酸で割ると飲みやすくなったりするそうで(これを書いている現在、筆者はぎりぎり未成年で飲酒経験がないため、有識者に聞きました。へえそうなんだ、まあ単純に薄まるわけだしな)。ものによる、という回答も返ってきたので実際どうなのかはわからないですが。

リキュール「愛情の機微」を炭酸で割ってさっぱり飲めるようにしてみたけど、それでも飲み干せない。
主人公のグラスに愛情を注いでくれる人がいて、けれども主人公はそれをうまく受けとめることができない。みたいな感じだろうか……?

こんなグルーヴにもちゃっかり
乗ったフリしたらがっかり
されちゃうものかもね
シガー切らし 時代遅れ

ここからちょっと戻る。

グルーヴというと、波だとか流れだとか、なんとなくそういうイメージが思い浮かぶ。
グルーヴに乗ったフリをする、つまりポーズだけで実際には乗っていないということだ。
今まで考えてきたことを踏まえれば、主人公が(本当は正常ではないけど)正常なフリをする、みたいなふうに読みとることもできる。
ここでも普通の波に乗るのか乗らないのか、みたいな葛藤が垣間見えてるね。

でもそうするとがっかりされちゃうものかもね、とこぼす。
「正常ではない自分」を自覚して、葛藤しつつも「正常」を突っぱねるようなそぶりを見せてきた主人公。
擬態して正常なフリをしたって、そんな自分には失望しか生まれないかもね、みたいな感じかな。

正常とかそうじゃないとか、そんなことにいったいなんの意味があるんだよと言いつつ、自分が正常じゃないとされていることに対してわりと悩んでいるとまでは言わないまでも、気にはしているような、そういう感じが伝わってきて。
だから切ないんですよねこの曲の歌詞。うまく割り切りきれていない感じ。

それがなんとも人間らしくて、生々しくて、だからこそ聴き手は、とくに普通ってなんなんだとかそういうことを考えたり悩んだりしたことがある人には、深く刺さってしまうんじゃなかろうか。
曲調はこんなにおしゃれなのにさ……こんなのってないよ……あんたってやつはほんと最高だよ斉藤さん(誰?)。

シガーのくだりは正直あまりわかってないです。ほかのみなさんがどう思ってるのかぜひお聞きしたいところ。
わたしはなんかシガーが流行ってて(?)吸ってないと時代に乗り遅れちゃうよ~><(?)みたいながばゆる解釈しかできませんでした。わけわからんな。
自分が社会に迎合できてない、みたいなことを表現しているのかな、などと思ったりはしましたが。貴重なご意見お待ちしております。この話おしまい。

それじゃ さかしまになったり
ななめから見ればあっさり
机上のクーロン そりゃ結構ね

「さかしま」という言葉、逆さまということだろうなとなんとなく思っていたんですが、調べてみるとどうやらそれだけではなくて「道理にそむく」という意味もあるらしく。言われてみれば確かに、道理とは逆のことをする、ってことでそういう意味もあるのね、と納得。またひとつ賢くなった。ありがとう斉藤さん!

そしてわたしは前に出てきた「あやまっている」とのつながりを勝手に感じ、ヒェ~となるなどしたのであった。主人公、おまえいったい何したんや……

「ななめから見ればあっさり」もむずかしくて、何言ってんだろう……になってます。文の構造的にあっさりのあとには何かしらの言葉が省略されているはずで、それがなんなのかわからずなので。「ななめから見る」は、斜に構えるみたいなことを表現してるのかもな~とは思いました。

とはいえこのあたりは語尾を「〇っ〇〇」で統一することでリズムとしての心地よさを重視している部分なので、そこまで深い意味はないのかもしれませんね。
語感だけでなくオクターブ上のハモりも気持ちよくて、ちゃっかり♪がっかり♪と思わず口ずさんでしまう。たのしい。

そして机上のクーロン。カタカナ表記にしたことで、これまたいろいろなクーロンが連想される。
まずは空論、それから九龍、クーロン(の法則)……などなど。
でもこれをカタカナにしたのは、2番Bメロの同じ部分にあたる「気丈なクローン」と表記を寄せるためっていうのもあるかもなーとは思う。

具体的にどういうところが正常でないのかはまだあまり見えてきていないが、社会に迎合できない主人公。いっそのこと道理にそむいてみたり斜に構えてみたりすれば、それも意外と簡単に割り切れちゃうのかも?なんて、そんなことできやしないくせに。机上の空論だ、そりゃ結構なことじゃないかと誰かが笑いながら言う。

……これはちょっと無理あるかぁ~~~!?(白状)(素直)
ぐるぐる考えたけどこの辺はむずかしいです^^

果たしてこれを考察ブログと呼んでしまっていいのかどうか……などと一瞬思ったりしましたが、まあわたしは!わたしの聴きかたに自信と誠意と責任を持って*1この記事をお届けしているので!モウマンタイでしょう!

ということで2番も見ていきましょう。まだまだ続くよ。

環状に沿う
倫理と言葉はどうだい
不等価交換だね

この「かんじょうにそう」、はじめて聴いたときには「感情に添う」なのかな~と思ってたんですよ。さっきサビで愛情がうんぬんって言ってたしね。
それで歌詞カードを見てみたら実際には「環状に沿う」と書いてあって、おおっ!と。驚きました。

でもこういうところがすごくおもしろくて、耳で聴くのと目で見るのとでそれぞれに違った印象を受ける。一度に二度おいしい的なね。
意図してのことなのかどうかはわかりませんけれども。ミスリードかと思ってたけどダブルミーニングの可能性もなくはない気がしますね。わりと意味通るし。

とくに、「環状に沿う」「感情に添う」このふたつは発音は同じなのに意味的な質感が結構違っていて、そこにもおもしろさがある。
「感情に添う」は字面通りではあるが結構情緒的な印象を受ける。けれども実際の歌詞は「環状に沿う」で、存外に無機質なフレーズだったんだなとそのギャップに驚かされる。
そうや、この振り回され感がたまらんのや……

ところで、「環状に沿う倫理と言葉」ってなんなんでしょうね。
環状に沿う、つまりはまるく収まる、つまりは当たり障りのない、みたいなこと?ちょっと無理あるか。
不等価交換ってことはそれが割に合ってないってことだよな。なんか急に哲学みが濃くなってきたな。むずかしいなりに考えてみる。

沿うという言葉には「基準となるものから離れないようにする」という意味がある。
基準となるルールに沿った倫理や言葉――「環状に沿う倫理と言葉」とはすなわち、「正常な人間でいること」と同義であると解釈することもできるのではと思うわけですよ。
でも正常じゃない自分がわざわざ周りやルールに従ってまでそれをすることは割に合わないよね、その労力とそれをすることで返ってくるものは不等価交換(もっと言えば、労力>見返り)だよね、みたいな。そんなところだろうか。

劣情装う
そんなジョークは脳を
眠らせているだけ

劣情とは、人間の持ついやしい心情。性的な欲望や感情を卑しんで呼ぶ語でもある。ここではおそらく、人間ならば誰しもが持っているとされている感情、くらいの意味で使われているのかな。
たとえばその中でも性欲は人間の三大欲求のひとつであるから、人間であれば生理的に持っていておかしくない。しかし主人公はそれを「装う」ものとしている。ここから、主人公はそれを持っていないということが推測できる。

人間ならば誰しもが持っているはずの感情(=劣情)。それを持っていないけれども、持っているフリをする(=装う)。
つまりはこれも、正常な人間に擬態するということを指しているのではなかろうか。

「そんなジョークは脳を眠らせているだけ」と評する主人公。おお……結構な切れ味だね……
わかりやすく、かつ強めの言葉で意訳してしまえば「冗談言うな、そんなことするなんて思考停止してる」みたいな感じだろうか。

主人公、自分が正常な人間じゃないことを気にしつつ、かといって正常な人間のフリをすることもあまりよしとしていない。
こういう葛藤、しんどいだろうな……と見ててすごく思う。きっと苦しいだろうね。
葛藤しているということは、それだけそのことについて考えて向きあっている証なのだけれど、うまく折り合いをつけられずなかなか前に進めていない感じ。

曲調のようにさわやかにはいかない、陰鬱とした歌詞……
読み解けば読み解くほど息が詰まっていくこの感じ、悪くないですね(マゾかな?)。

ほらね 当たっていたやっぱり
それはそれでもうさっぱり
なれちゃうものかもね
シガーに火をつけさせて

再び来ましたね「〇っ〇〇」タイムが。1番よりよくわからんなここ……(貴重なご意見お待ちしております)
なにが当たっていたのやら。前のAメロと内容があまりつながってなさそうな気がするんだよな。
「なれちゃう」は慣れちゃう、とかだろうか。
やはりここは響きを重視しているっぽいので、あまり触らないでおくことに。

1番では切らしていたシガーに、2番では「火をつけさせて」と言っていますね。
例のがばゆる解釈に従ってみると、ここで一度迎合しようとしてみてる?のかな?

これじゃ なめくじのはったり
損な役回りばっかり
気丈のクローン そりゃ熱望です

なめくじというと思い浮かぶのが雌雄同体。ひとつの個体が雄と雌の生殖器官を両方持ち合わせているということです。
ここでは本来の意味そのままというよりは、相反するふたつのものを持ち合わせていること、くらいに思っている。
そしてここでまさかのがばゆる解釈が生きてくるんですけど(ウケる)、主人公が正常な人間に擬態する=「正常」「正常でない」という相反するふたつのものを持ち合わせることになるわけですよね。
そしてはったりとは、わずかなことを大げさに言ったり、ありもしないものごとをあるように見せたりして他人を圧倒しようとすること。

主人公が正常な人間に擬態することは、自分の中にありもしない「正常」をあたかもあるものかのようにふるまうということ。そんなものは「なめくじのはったり」でしかないと。
そして正常な人間のフリをするには、その見返りに見合うと思えない労力を使う必要がある。「不等価交換」、要するに「損な役回り」だ。

「気丈のクローン そりゃ熱望です」はかなり切実というか、疲れちゃっている主人公のようすがよくわかるフレーズだなと思います。
心を強く保てる(=気丈)もうひとりの自分(=クローン)がいてくれたらどんなにいいか、って。
主人公は、わたしが思っていたよりも繊細な人なんだな……と思いました。

最初の日々を
続けていたら
きれいなまま 息が苦しいって

「最初の日々」は、冒頭の何もない(実際にはそれは終わってしまったので、何もないことを装っている)日々、という解釈でいいかしら。
なにか間違っていることをしてしまったけどそれをないしょにして、これまでとは変わらない生活を送り続けている主人公。
はたから見ればそれは本当に今までとなんら変わっていないように見えるけれども、当の本人は息苦しさを感じている。
ないしょにしていることが苦しいのか、それとも曲中でずっと繰り広げられている葛藤が苦しいのか。

珊瑚のひびを
誤魔化すような
とうに戻んない

珊瑚を深海の底から引きあげて採取するときに、水圧の差によってひびが入ってしまう、ということがあるらしい(ちなみにそのひびのことをクラックと呼ぶんだそう)。
主人公は今、例の出来事をきっかけにして生活に入ってしまった亀裂を誤魔化してばれないようにしながら生きている、みたいなことだろうか。

いろんな色があるみたいですが、なんとなく珊瑚といえば赤色っぽいイメージありませんか?珊瑚色とかもあるしね(コーラルなのでどちらかというとピンクに近いけど)。
そして、珊瑚は死んだら白くなる。これは珊瑚についてる肉が削げ落ちて骨格だけになるからだそうです。
もしかしたらのちのちわかることがあるかもと思って記しておきました。

たまにはちょっと ひとりきりで
ぶらつく街も 悪くはないや

2番サビ終わった後急に転調?してる?よね……?(自信なし)
ふ~!とか言っちゃって急にご機嫌になってるし。歌詞もこれ以前と比べるとメンタル上向きめな感じがする。情緒が……不安定……

ちょっと聞き捨てならないんですけど、これ口ぶりからしていつもは一緒に歩く相手がいる(=ひとりきりじゃない)けど今日はいないってことですよね……?ここに来て不穏。
そんで主人公さん、ひとりもまあええやんってなってるし。

あの日もこんなふうに 偶然の
いたずらに 惑わされてしまったのかな

「あの日」というのは、順当に考えて例の出来事が起こった日だと思うんですけれども。
「あの日」の出来事も、今日こうしてひとりでぶらぶら歩いてるみたいに偶然起こったことなのかな~と主人公は考えている。
ということはいつも一緒に歩いてるはずの相手が今日はいないということも偶然……ということになるのか……

それから、この文は
「あの日もこんなふうに(自分が)偶然のいたずらに惑わされてしまった(から、その出来事が起こった)のかな」
と補うことができるので、その出来事というのは、主人公がみずから起こした何らかの行動なのではないかと推測することができる。
いったいなんなんだろうねー……

感傷の意味を
風に撒いたら
きれいな紙屑が暴れだして

さあ!ラスサビ来たよ!
Twitterでちらっとこの部分が解禁されたときから、美しさと切なさが同居していてめちゃくちゃ素敵な歌詞だなと思っておりました。
曲中でもわたしのいちばん好きな歌詞です。

1番のサビで辞書を引いていたので、ここの歌詞を見てもやはり辞書のイメージがあって。
あるフレーズを聴くと決まっていつも同じ映像のイメージが頭の中に流れる、みたいな脳内MV的な現象がときたま起こるんですが、この部分を聴くと辞書の「感傷」が載っている1ページをびりびりに破いた紙屑が風でぶわっと舞い上がってとんでいく、みたいな映像で頭がいっぱいになります。きれい。

感傷というとセンチメンタル、なにかを感じて心をいためる、みたいな感じですね。
わたしは個人的にどうしても上記の映像のイメージがめちゃくちゃ強いので、主人公が持っていた感傷的な気持ちが風にさらわれて消えてしまったのかな、なんてことを考えていました。
でも風に撒くって、自発的な動作ですよね。自分から手放した、のほうが自然かもしれない。

ないしょのきみを
どこにやったか
思い出せない

まさかのここではじめて出てくる人称代名詞。そして「きみ」という存在。
この「きみ」という人が、主人公のグラスに愛情を注いでくれる人であり、いつも一緒に街を歩いていた人なのだろうかと推察。
そしてその「きみ」が今日はいない、と……

この部分を考察する前に、みなさんに言わねばならないことがあります(なに!?)。

ここまできたのでもう率直に言うと、わたしは主人公が「きみ」を殺してしまったのではないだろうかと思っていまして。
「きみ」を殺してしまったこと=例の出来事 であると仮定して、改めて歌詞を見ていくと、

・主人公がしたこと(=人を殺すこと)は世間一般に間違っている
・主人公はあの日以降人を殺したことを隠しながら(人を殺していない=正常な人間であるフリをして)生活していて、息苦しさを感じている
・珊瑚は死ぬと白くなるということから、死ぬと血色を失う人間が連想できないこともない
・いつもは一緒にいるはずなのにいなくなった誰かの存在
・その誰か(=きみ)が今日はいないこと=主人公がきみを殺してしまったこと=偶然

といった感じで、繋がる部分があるんですよ。

とはいえ、この曲の時間軸が完全に出来事のあとであること、出来事の内容に関する言及が全くないことから、わたしは思いつかなかったけどほかにもいろんな可能性があるんじゃないかなと思います。貴重なご意見(略)。

この主人公が人を殺してしまった説は終盤までいかないと立てられないので、そうなると今までに読み解いてきた歌詞の感じ方も変わってくるわけです。

まず、この主人公の「正常でない」部分って結局どこなの?という話だが、わたしは「人と比べて感情が乏しい」ことなのかなと思った。
ひらたく言えば、サイコパスっぽい感じ。自分自身の感情の起伏があまりなく、他者の感情に対しても疎い。
それゆえか、「きみ」を殺してしまったことを偶然のいたずらかななどと考えている(明確な殺意になりうるような強い感情がみられない)。
「きみ」から愛情を注いでもらってもそれをうまく咀嚼できないところや、人間であれば誰しもが持っているとされている感情を自分は持っていない、としているところからもそれが推察できる。

しかしおそらく実際の乏しさ以上に、自分でそうだと思い込んでいる節も割とあるんじゃ……とも思った。
ここまで歌詞を読み込んできたわたしから言わせれば、全くもって感情がないなんてことはないと思うんですよ。この人。
そもそも自分が周りと違うことに対して葛藤しているし、隠しごとのある生活に息苦しさを覚えているし。人間らしさを感じさせるフレーズも確かにあった。

それからずっと、正常である/正常でないという、比較的大きめなスケールのテーマについて考えをめぐらせていた主人公だったが、この説をもとに考えると、主人公は「自分が人を殺してしまったこと」自体に対してもまた、葛藤していたのではないだろうか。

なんらかの理由(これについての言及は全くないが、偶然のいたずらと表現されていることにかなりの恐怖を感じる)で「きみ」を殺めてしまった主人公。
してはいけないことだったということを理解しているが、納得はしていない。そしてそう考えている自分、それをしてしまった自分は正常な人間ではないのだという自覚が生まれる。

前々から若干気にはなっているけどそこまでではないな、っていう悩みの種のようなものが、ある出来事をきっかけに突然芽を出してくる、みたいなことってあると思うんですよ。
主人公は「きみ」を殺してしまったことで、うすうす感じてはいた「自分ってもしかしてみんなとは違うんじゃ」という思いが大きくなってしまった。


そして最後のフレーズ。
葛藤の末に、主人公は感傷を失ってしまった。それと同時に、「きみ」の行方まで失ってしまった。

これは、主人公の抱えていた感傷の中には「きみ」がいて、つまり主人公は「きみ」を殺してしまったこと、「きみ」がいなくなってしまったことに対して、多少なりとも心をいためていたということである。
しかし自分には感情がないと思うばかりに、持っていたはずの感傷を手放してしまった。
なあ、ちゃんとあるじゃないか、感情が……
しかし悲しいもので、失ってからその存在や大切さに気づくこともある。


感情がないことに悩んだ末に、またひとつ感情を失ってしまった、ということですね。





いかがでしたでしょうか。
我ながらなにこれめっちゃ切ない……それどころか悲しい……な解釈になってしまった。
でもこの曲大好きです。ほかの曲も大好きだし。どれもはやくライブで聴いてみたいなー!!!!!!!!!

さすが「my beautiful valentine」なだけあって、ダークな方向に転がっていったな。
ほかにもいろんな解釈、考察のしかたがあると思うので、みなさんがこの曲を聴いてどんなことを感じるのかもめちゃくちゃ知りたいです。
……お題箱でも設置しとくか。
最後に載せておくので、感想や解釈などなどもしあればお気軽に投げていただけるとうれしいです^^


少しでも楽しんでいただけていたら幸いです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

なにかあればこちらまで。
odaibako.net

*1:斉藤壮馬さん インタビューharajuku-pop.comより

あのね、ぼくはきみが大好きなんですよ。

あのね、ぼくはきみが大好きなんですよ。
それはきっと、きみが思っている以上に。


いつも考えている。ぼくはきみのどこを、どんな風に好きなんだろう。
星の数ほどいる人のなかで、どうしてぼくはきみを選んだんだろう。

きみを好きになってからずうっと考えているけれど、その答えはまだ出ていないし、これからも出ることはないと思う。
それでも、きみにこの気持ちが、声が、すこしでも届いていますようにと、ぼくは祈っています。



ぼくはきみの声が、大好きです。


あのとき、きみの声を聞いたぼくは、はじめてひとの「声」に惹きつけられました。
きみが初めてだったんだ。このひとの「声」が好きだ、と思ったのは。

甘くて爽やかで、クリアな質の声に乗る吐息はしっとりと色気を含んでいて。
一本しっかり芯が通っているのにどこか儚くて、耳にやさしく、けれどもつよく沁みてゆく。
そんなきみの声にすっかり恋をしてしまったぼくは、それから来る日も来る日も、いろんなキャラクターに生命を吹きこむきみの声を、そしてなにも飾らないきみ自身の声を、たくさんたくさん聞いてきました。

ねえ、好きになってから数年経った今でも、きみの声を聞くとぼくの心臓は忙しなく跳ねるんだ。
きみが話しだすと、たちまち空気が澄み渡るような気がして、まるで、その瞬間は世界中でたったひとりきみだけが、この惑星に満ちた空気を震わせているかのような感覚に襲われるんです。

そのくらい、ぼくにとってきみの「声」は特別なものなんだよ。この気持ちを、どうか恋と呼ばせてください。



ぼくはきみの演技が、大好きです。


きみは今まで、本当にいろんなキャラクターの人生を背負って、彼らに生命を吹きこんできましたね。
そしてこれからも、まだ見ぬ彼らとの出会いは絶えないのでしょう。

きみは「キャラクターを演じるとき、自分と似ている部分を探すというよりは、そのキャラクターだったらどうするかを考える」のだと、いつも言っていますね。
自分ではない誰かの気持ちに寄り添って、それを自分のなかに落としこんで、声にのせて届ける。
キャラクターに生命を吹きこむきみからは、いつも驚くほどにきみの気配がしないから、きっとぼくには到底測り知れないほどの想像力、集中力、努力をもって、役と向きあっているのでしょう。

きみはそれをさも当たり前なんて顔で、そつなくやってのけてしまうけれど。
そのぴんと伸びた背筋、深いお辞儀、ぐっと力が入ってかたい指先。
きみの立ち居振る舞いのひとつひとつをみて、ぼくはいつも、
ああ、きみがこれまでに滲ませてきた血が、流してきた汗が、今この瞬間のきみを最高に輝かせているんだな。
でも、ぼくにみえているこれはおそらく氷山の一角にすぎなくて、ぼくの窺い知れないところにはもっとたくさんのものが積み重なっているんだなと、なんだか誇らしいような、誰かに自慢したいような気持ちになるんです。

だからこそあの夏、いつも以上に目に輝きを湛えたきみがすこし声を震わせながら紡いだ言葉を聞いて、胸がきゅうう、と締めつけられるような心地がしました。

ぼくは知っています。
きみがいつも、生まれもったものや周りからの評価に決してあぐらをかかず、血の滲むような努力を重ねていること。
マイクの前で、舞台の上で、空気を揺るがすその一瞬を最高のものにするために、本当にたくさんの時間を、情熱を、きみがかけていること。

そんなきみでも、これでいいのかと迷ったり不安になったり、舞台に立つことが怖くなったりすることがあるのだということを、あのときはじめて、きみの言葉を通して知りました。

ぼくの知らないところで、知るよしもないところで、悩んだり迷ったり苦しんだりするきみに、ぼくがしてあげられることは何もない。
そこには無力感もあったけれど、それ以上に、いちばん近くていちばん遠いところからきみをみているぼくにできることは何なのか、改めてよく考えました。
だからぼくはこれからも、きみがみせてくれる世界に精いっぱいの拍手を、声援を、笑顔を、言葉をおくろう。
きみが全身全霊でぶつけてくる気持ちに、ぼくも全身全霊の気持ちを返します。

お芝居を通して、きみがいろんなものをくれることがとても嬉しいです。
いつもありがとう。



ぼくはきみの言葉が、大好きです。


きみを目で追うようになって、きみの言葉にふれるようになってから、出会うすべての人の言葉にふれることがひとつの楽しみになりました。

ブログやエッセイに雑誌のインタビュー、ラジオや生放送のトーク
ぼくはいろんなところできみの言葉をみつめて、耳を傾けてきました。

ふれればふれるほど、よくわかります。
発した言葉が誰かを傷つけるナイフにならないように、いつも気を配っていること。
でもそれと同時に、きみの言葉はただ優しいだけのものではないことも。

ぼくの胸がいっぱいになって、ふわふわと浮き足だっているとき。
共有しているえも言われぬ気持ちを言葉にすることで、きみは寄り添ってくれる。
ぼくが先の見えない不安に、なんとなく沈んでいるとき。
きみも同じ渦のなかにいるはずなのに、確信を持った言葉で、きみはぼくの手を希望に向かってまっすぐに引いてくれる。

数えきれないほどきみの言葉にふれて、そのたびにぼくは、今この瞬間に心をかすめた気持ちを自分の手でしっかり抱きしめよう、言葉にする努力をしよう、と思えるんです。

きみの言葉でぼくがどれほど救われるか、強くなれるか、たぶんきみは知っているけれど、知らないでしょう。
だから、何度でも伝えます。今までも、これからも。
ぼくは、きみの言葉にたくさん救われています。
いつもありがとう。



ぼくはきみの歌が、大好きです。


きみの歌は、ぼくにいろんな言葉を、音を、力を、世界を、届けてくれます。

ぼくがそれをいちばん強く感じたのは、はじめて「エピローグ」を聴いたときでした。
今までに経験したことがないほど強く心を揺さぶられて、この歌を受けとったぼくはなにか自分にできることをしたい、と半ば衝動に突き動かされるようにこのブログを開設して。
そうしてぼくは、たくさんのことを知られました。
「好き」を言語化するのは難しいということ、でもそれと同じくらい楽しいということ、言葉にしてはじめて知る自分の気持ちが、確かにあるのだということ。
そしてそれをすることで、きみのことをもっと好きになれるのだということ。
ぼくが今こうしてきみへの想いを言葉にできているのも、きみのおかげなんだよ。ありがとう。

輝きながら揺らめく緑のなかで歌うきみの姿を、ぼくは一生忘れません。
あの日、ライブの序盤でわけもわからず泣いてしまいそうになったことを今でもよく覚えています。
ギターを弾きながら伸びやかな声で「デラシネ」を歌うきみは本当に幸せそうで、これはぼくが感じたことだから本当のところは分からないけれど、おれ今生きてるんだ、これでいいんだ、って顔をしているような気がして。
そうだよ、きみは今生きてるよ、最高に輝いてるよ。
そんな思いを、ぼくの光に込めた。すこしでもそれがきみに届くことを願って。

その夜。いちばん最後のMCで、きみは話してくれたね。
若い頃は苦手なものが多くて、生きるの苦しいな、なんて思っていたけれど、歳を重ねるにつれていろんなものを受け入れて、愛せるようになってきた。
それを聞いたとき、さっき自分が泣きそうになった理由が、何となくわかった気がした。

ぼくはきみのことを、人間味があまりなくて、自分とは違う生きものなのではないかと思うことがよくあった。
だけど、そうじゃないんだとわかったんだ。
あのとき、すこし瞳を潤ませながらもぽつ、ぽつ、と言葉を紡いでくれたきみが、これまでにないほどぼくの近くにいるような気がした。
そして、ああ、ぼくもいつかきみと同じように、いろんなものを受け入れて、愛せるようになる日が来るのかもしれないな、と、そう思えたんだ。

きみは確かにぼくと同じ人間で、悩んだり迷ったり苦しんだりすることもある。
そしてそれらを乗り越えて、きみは今ここにいる。それらを乗り越えて、いつもぼくの前に立っていてくれる。
大げさだと言う人がいるかもしれないけれど、ぼくにとってそれは奇跡のようで、運命のようで、でも本当はきみの強い気持ちや努力が積み重なって、実を結んだからこそのことで。


ねえ、ぼくにとってはそれが、本当に嬉しいんだよ。

きみが今この瞬間も、生きてくれていること。
きみが好きなものを、きみの手で、きみの声で、たくさんぼくに届けてくれること。
ぼくがきみのことを心底いとおしいと感じるには、それはもう十分すぎることなんだよ。

そうしてまた目の奥がじんと熱くなったけれど、手を伸ばせばふれられそうなほどそばに感じるきみを見失いたくなくて、ぼくは唇を強く噛みしめながら前を見据えた。
その先にいたきみは、これまでにみたどんなきみよりも慈愛に満ちて美しく、人間らしくみえて、やっぱり我慢できなかったぼくはこみあげて溢れたいとおしさが目からこぼれおちていくのもかまわずに、心のなかで何度もつぶやいた。

ありがとう。



ぼくはきみのことが、大好きです。


きみがきみとして、この世界に生まれてきてくれたこと。
きみが声優になる道を選んで、今日まで歩んできてくれたこと。
きみがぼくを、その声で呼んでくれたこと。

そのすべてがぼくときみの今につながっているのだと思うと、ぼくは胸の奥がじんわりあったかくなるような、この世界をぜんぶ抱きしめて心から愛せるような、そんな気持ちになるんです。


ぼくの気持ちは、声は、すこしでもきみに届いただろうか。
それは、ぼくにはわからないけれど。

星のようにまばゆく光るきみにぼくが捧げる祈りの名前は、きっと「愛」だ。



あのね、ぼくはきみが大好きなんですよ。
それはきっと、ぼくが思っている以上に。








あとがき


この文章の書き方には、元ネタというか、本家の方がいらっしゃいます。

whynot4696.hatenablog.com

こちらの記事です。何度読んでも胸があたたかくなる本当に素敵な記事なので、ぜひ読んでいただきたいです……!
引用させていただくと、この文章の縛りは一人称が「僕」であること、二人称が「君」であること(個人的なこだわりで表記はひらがなにさせていただきました)、そして「好き」を繰り返すこと、というものでした。

わたしはこの記事をフォロワーさん経由で見つけて、わたしもこんな文章書いてみたいな~!と思い、筆をとった次第なんですけれども。
あれ、おかしいな……わたしが書くとキモオタのクソ重ラブレターにしかならなかった……

でもなんかこう、そのときそのときに受けた供給の好きポイントをガーッと文章にするのは日常茶飯事ですけど、こうして改めて推しの好きなところってなに?って考えて言葉にする、というのは何だかんだではじめてだったので、苦戦しながらも楽しく書きあげられました!


改めまして、素敵な文章を読ませてくださった本家ブログの主さま、この記事を最後まで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました!

刹那の逃避行に、愛をこめて

斉藤壮馬さん、アーティストデビュー3周年おめでとうございます!

3年前の今日、突如開設されたTwitterのアカウント。
そこに書かれていたのはアーティストデビュー、1stシングル発売決定の文字。

声優界隈にのめり込むと同時に、壮馬さんを知って好きになってからまだ半年とちょっとくらいしか経っていなかった当時のわたしは、「声優さんがアーティストデビューするの!?いったいどんな感じになるんだろう?」と思いつつも、壮馬さんが創り出す世界をこれからたくさん見られるんだ、とワクワクで胸がいっぱいになったのをよく覚えています。
そして、その気持ちは今も胸にあります。
きっと、明日も明後日も、ずっとその先も。
これからも、壮馬さんが紡ぎだす音を、言葉を、世界を、感じとって咀嚼して、たくさん味わっていきたいです。


さて。
突然なのですが、アーティスト斉藤壮馬さんのことが好きなみなさんに、質問があります。

あなたが一番好きな「アーティスト斉藤壮馬さんの楽曲」は、なんですか~!?
はい、せーの! ……



今この質問にスッと答えられた方は、果たしてどのくらいいらっしゃるのだろうか……。
聞いておいてなんですが、わたしも未だに答えを出せずにいます。

それではもうひとつ、質問をさせてください。
今度は急かすつもりはないので、じっくり考えていただきたいです。

あなたにとって、聴くと「ああ、やっぱりこの人の生み出す音楽が好きだな」と、何度でも実感できる曲は、なんですか?



わたしにとってのそれは、『デート』です。

これはもう、即答できます。
わたしは『デート』という曲が、とても好きです。

もちろんどの曲も大好きなんだけれど、わたしにとって『デート』はなんだか特別な存在。
今日は、そんな『デート』の好きなところをつらつらと書いていきたいと思います。

ここから先は、本当に主観しか含まれない文になると思うので、こんなふうに感じる人もいるんだな、くらいの気持ちで、ゆる〜く肩の力を抜いて読んでいただけると幸いです。
これからわたしと一緒に、海まで歩いていきませんか?

『デート』、再生。


『デート』の歌詞について


わたしがもっとも歌詞に「そまみ」を感じる楽曲は、『デート』である。
そして、今となってはすっかり界隈に浸透した「そまみ(=壮馬味。斉藤壮馬っぽいということ)」という言葉が本人の口から出てきたことでオタクに広く普及し始めたのが、まさに3rdシングル『デート』のリリース時期だったように記憶している。


具体的にどの部分に「そまみ」を感じるかというと、たとえば

正直タクシー代はちゃんと持ってるけど *1

「ぼく」は、どれだけ飲んで飲まれて飲んだくれても、タクシー代をちゃんと持っていて、その気になればいつでもタクシーを呼んで家に帰れる、っていう。
個人的にはめちゃくちゃ「そまみ」を感じます、この部分。

続きまして。

このときを閉じ込めて 永遠に仕立てあげたい *2

はい出ましたこちら。
アーティスト斉藤壮馬さんの楽曲の中で、わたしが一番好きと言っても過言ではないフレーズです。
したい、でも変えたい、でもなく、永遠に「仕立てあげたい」のがポイント。
「ぼく」は、永遠などというものがこの世には存在しないのだということも、だからこそ「きみ」と過ごしているこのときが決して永遠にはなり得ないということも、よくわかっている。
それでもいい。虚構でもかまわない。
「きみ」とのデートが、この瞬間が永遠であると「錯覚していたい」のだという、矛盾していながらも切実な「ぼく」の願いに、ポップなサウンドとは裏腹な切なさが込みあげてくる。


そしてこれは個人的にめちゃくちゃ気になってることなので、みなさんのご意見もぜひお聞きしたいんですけれども、

GPS切って 走って 笑って 黙って すきって *3

GPS切って」この歌詞、みなさんはどういう風に解釈していますか?
もちろん正解も不正解もないと思うので、いろんな解釈があると思います。

わたしは、大きく3パターンの解釈をしてみました。


まずは初めて歌詞を見たときに考えた1つめ「誰かに監視されている『きみ』」パターン。もうこの時点で雲行きが怪しいんですが。

~ここから妄想~

GPSで誰かに常に監視されていて、そのことに対し息苦しさを感じている「きみ」。
そんな中、終電間際の高田馬場で「ぼく」と出会う。そしてせめて今だけは……とスマートフォンの電源を落とし、「きみ」は刹那の逃避行に出ることを決めたのだった――。

~ここまで妄想~


というもの。字に起こすと改めてかなりブッ飛んだ解釈だなと自分でも思うんですけど、

冥土の道みたいね *4

これまでに出てきた「~しようよ」「~だね」などとはまた違う雰囲気の口調であることと、なんの前ぶれもなく耳に飛び込んでくるこの歌詞の思いがけなさから、わたしはこれを「きみ」の言葉であると解釈してみた。

冥土の道、つまり直訳すると死後の世界に続く道みたいね、と言っているのだろうか。
これもさまざまな解釈があると思うんですけど、わたしが思いついたのは2パターンでした。

①もうすっかり夜中だし、わたしたち以外誰も歩いてないね。このまま歩いてったら知らないうちに死んじゃってて、冥土に着いちゃったりして?
②ああ、GPSを切って数時間も行方をくらませて、こんなことしてたら帰ったときなにをされるか分かったものじゃない。「ぼく」とのデートもこの関係も冥土が終点、きっと片道切符なのね……(これは書いててさすがに無理があるかもと思ってきてしまいました)。

というか、一緒に歩いてて急にこれ言われたらめっちゃ怖くないですか?夜に。わたしだったら泣いてる。
そりゃあこの子、「ぼく」に「アセンションしたから大丈夫」って言われてもあんまり怖がらなかったわけだわ。と、妙に納得したわたしなのでした。

震えてるきみの肩 すぐにでも支えたいのに *5

「肩を震わせる」という言葉は、強い感情を押し殺す、というようなニュアンスで解釈できると思うので、「きみ」はこのデートが終わることでまたあの日常に戻ることを恐れて泣いているのだろうか。
でも「ぼく」はその事情を知らないし、触れはしない、と思っていることから、ただただうろたえることしかできない。
「きみ」は、いったいなにを考えているのだろう。
見つめあってみてもお互いの心は交わらないまま。

そうやっぱ これってデートだよ 未来はね
たくさんあんだ 選んだ 先がどんなものでも *6

「ぼく」からのレイトショーの誘いを断ることを選んだ「きみ」。
ここで”永遠”の魔法は解けてしまう。
その先がどんな人生になったとしても、それが「きみ」にとっての未来だということなのだろうか。
しかし、「ぼく」と「きみ」がこれからそれぞれに歩んでいく未来がどんなものであろうとも、「デート」=「今この瞬間の楽しいという気持ち」は変わらないよ、というような意思が感じられることはふたりにとっての救い、希望かもしれない。

いろいろと怖すぎるので、わたしはこれ以上考えることをやめたのだった。


気をとり直して2つめ「散歩を楽しもう」パターン。よかったこれは平和そう。

ここでは、GPSスマホの地図アプリだと解釈してみた。
こんな時くらいはマップを見たりせずに、行き当たりばったりで夜の散歩を楽しもう、というニュアンスだ。


最後に3つめ「このデートはふたりだけのひみつ♡」パターン。

GPSを切る=ふたりがどこにいるのか、誰も知ることができない。
ふたりで行方をくらまして、みんなには内緒でこのデートを楽しもう、ということだ。

つまり、その先にある「黙って」はここでは「誰にも内緒で」というニュアンスにもとれる。
……なかなかにキュートでロマンチックな解釈だと思いませんかこれ!?

これはぜひみなさんの解釈も聞いてみたい。貴重なご意見、お待ちしております。


それから、最後にこの歌詞。

それならきっと ちゅっと えっと あっそうですかここでばいばい

家で飲みなおそっかな
またね *7

これならきっと進展がある……!とほんのり期待して「きみ」をレイトショーに誘うも、断られてしまう「ぼく」。
途端に「あっそうですかここでばいばい」って、ちょっと待ってドライすぎない?
この歌詞に全くスペースが入っていないところから、断られてから諦めるまでがほんの一瞬のことであったかのようにも思える。思考のノンブレス感。
歌詞表記のこういう細かいこだわりが、なんともたまりませんね。

今まで「ああ、なんか酔っちゃいそう♡」だの「これってデートみたいだね」だの「そろそろ手とか繋いじゃいたい」だのと、「きみ」に好意があって、あわよくばこの関係を発展させたいというような素振りを散々見せていたにも関わらず、「ぼく」は突然やってきたデートの、この関係の終わりに何ら未練を感じていないようすだ。
それどころか呑気に「家で飲みなおそっかな」とまでのたまっているではないか。

それまでの4分28秒間の甘酸っぱい気持ちはいったい何だったの……と思ったが、これもまた「そまみ」を感じる要素ではないだろうか。

「絶対に君とデートがしたい!」というよりは、
「この一晩、たまたま僕らの人生が交わって、たぶん今後も交わることはないけれど、今が楽しいからいいよね」っていう曲です。 *8

『デート』の曲調について


恥ずかしながら、わたしには音楽に関する専門的な知識がほとんどないので、ここからはわたしの耳で聞いて感じたことを書いていきます。広い心をもって読んでいただければと思います。

まずは、1stアルバム『quantum stranger』がリリースされた時期にTwitter上でおこなわれた同時鑑賞会、その名も「tweet stranger」にて、壮馬さんが『デート』について言及したものがこちら。

Sakuさんいわく、どうやら『デート』はすごい(コード進行が)いっちゃってるらしい。

わたしはコード進行についても全くと言っていいほど知識がないのだが、言われてみればなるほど、確かに聴こえてくる和音にはどことなく浮遊感があって、進行が予測不可能だというのは感じ取ることができる。

ほかにも、そういった知識がないわたしでも、『デート(Instrumental)』を聴いているといろんな情景やイメージが浮かんできたので、わたしが感じたものをぽつぽつと、ここに記しておくことにする。


まずはいちばん初めの、ダンッ!というドラムの音。
これを聴いただけで、わたしの心は否応なしに弾む。
イントロドンで流れてきたら光速で反応できると思う。ピンポン!斉藤壮馬さんの『デート』!正解~!

1番2番ともにBメロで鳴っているカリンバのようなぽろろん、ぽろろん、という音を聴くと、やわらかくてまるいネオンの光がきらきらとゆれる夜の街並みが目の前に広がっていく。

さらに、一曲を通してベースの音に耳を傾けてみると、

急に静かになって そろそろ手とかつないじゃいたい、なんてね *9

この部分にのみ、ベースがスラップ奏法を用いていることがわかる。
跳躍するスラップベースの音が、「きみ」とすこしでも距離を縮めたくて踏み出そうとする「ぼく」の高鳴る鼓動のようにも聴こえてくるのではないだろうか。

そして2番のサビが終わり、Cメロにさしかかると同時に聴こえてくるギターの音。
繰り返される3音のフレーズは、寄せては返す波のようにも聴こえる。
夜の浜辺の空気を揺らすのは、穏やかな波音とふたりの気配だけ。

もちろんインストゥルメンタルだけでなく、ボーカルにも細やかなこだわりを見つけることができる。

合いの手「カンパイ!」で壮馬さんの声に重ねられている女声(なにを隠そうこれも壮馬さんのお声なのだが、非常にかわいい。ぜひ右耳だけイヤホンをつけた状態で聴いてみてください)や、サビで聴こえてくるオクターブ上のコーラスが曲中での「きみ」の存在感をより際立てている。

また、歌詞の意味と音階のシンクロも非常に印象的だ。

視線 絡まっても 心は平行線で *10

「へいこうせん」の部分で、言葉通りに一定の音階が続く。
言葉の意味と音階がシンクロすることで歌詞がより入ってきやすく、交わることのないふたりの想いにわれわれ聴き手の心はきゅうと切なくなってしまう。

とはいえ最後にはすんなりと別れて違う道を歩いていってしまうのだけれど、Cメロで「きみ」が震わせた肩も、それを受けて葛藤する「ぼく」から垣間見えた切実な想いも、ぜんぶ本当だったのだろうなと思う。

真面目に不真面目、断念と執着、生々しさと儚さ。
そんなアンビバレンスとすこしの純粋が詰まったその世界でうまれた、ふたりのたったひとつの交点に、わたしはいつまでも思いを馳せていたい。


さいごに


だいたい2日くらいで書きあげたんですけれども、その間はずっと『デート』と『デート(Instrumental)』ばかり無限ループしておりました。とても楽しかったです。
ご飯を食べていてもお風呂に浸かっていても、寝ても覚めてもデートのことばかり考えていました。
残念ながら壮子さんは、夢に出てきてくれなかったけれど。
記事を書く前からこの曲が大好きだったけれど、これを機にもっと好きになりました!


改めまして、アーティストデビュー3周年、おめでとうございます!
これからも『デート』という曲が、斉藤壮馬さんの生み出す作品が、どうかたくさんの人びとに届いて、愛されますように。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
ここでばいばい。

*1:斉藤壮馬の楽曲『デート』より

*2:斉藤壮馬の楽曲『デート』より

*3:斉藤壮馬の楽曲『デート』より

*4:斉藤壮馬の楽曲『デート』より

*5:斉藤壮馬の楽曲『デート』より

*6:斉藤壮馬の楽曲『デート』より

*7:斉藤壮馬の楽曲『デート』より

*8:TVガイド VOICE STARS vol.06 より

*9:斉藤壮馬の楽曲『デート』より

*10:斉藤壮馬の楽曲『デート』より

いま、素直に思うこと

日付が変わって、4月22日。
今日、わたしの推しである斉藤壮馬さんが、29歳のお誕生日を迎えました。
おめでとうございます!

それとほぼ同時に、壮馬さんのブログが更新されて。
22日中には更新されるんだろうなぁ、くらいの気持ちだったので、まさか日付が変わった瞬間に更新されるなんて思わなくて。
(壮馬さんもわたしたちと同じように、日付が変わるのを今か今かと待っていて、その瞬間に更新するボタンを押したのかと思うと、あまりの愛しさで口から出た心臓が冥王星まですっ飛んでいきそうですね)
驚きつつも、壮馬さんのブログを読み始めました。


うんうん、久しぶりの更新ですね。
わたしは今、家で元気に過ごしています。
壮馬さんはどうですか?
うんうん、うんうん……


わたし、なんで、泣いてるんだろう。
壮馬さんの言葉を噛みしめながらも、ぽろぽろ落ちてくる涙はずっと止まらなくて。
読み終えるころにはもう、ちいさく嗚咽を漏らすほど泣いていました。


ああ、わたしほんとうに、幸せだなぁ。
壮馬さんを好きになってよかったなぁ。
この人はきっとこれからも、壮馬さんが好きだとたくさん思わせてくれるんだろうなぁ。

漠然と、そう思いました。


そしてこれを書いている現在、4月22日の深夜1時32分。

ブログの下書きには、日付が変わる10分前くらいに書き上げた記事が眠っています。
その記事はたぶんこれからも、ここで眠り続けると思います。

世に出してあげられなくて、ごめんね。
3650字も書いたのになぁ。



でも、わたしはこれでいいやって思っています。
その記事に費やした時間や労力に、無駄はひとつもありません。自信をもって、そう言えます。
それはわたしが壮馬さんとしっかり向きあって、壮馬さんのことをたくさん考えた、その瞬間にしか生まれなかったであろう思いの結晶だからです。

これからもずっと下書きに残しておいて、時折読み返したいと思います。

ほんとうは、日付が変わってしばらくしたら、その記事を公開するつもりでした。
でも、いまの壮馬さんの思いの丈が純粋に、シンプルに、素直な言葉で綴られたブログを読んで。
わたしも日付が変わって壮馬さんの誕生日を迎えたいま、この瞬間に思っていること、感じていることを言葉にしよう。
そう思ったんです。

事前に記事を書いているときは、あんなにウンウン唸りながら言葉をひねり出したり推敲したりしていたのに、いまはなんの迷いもなく、すらすらと文字を打てています。なんでやねん。
でも、きっとこういうことなんですよね。
自分の気持ちを素直に言葉にするって、案外難しいのかなって思っています。
いまそれができているということを、この気持ちを、これからも大切にしたいなあ。



壮馬さんの書く文章にふれるたびに、壮馬さんは「やさしい言葉」を使う人だなぁ、と感じていて。
でも、ここでの「やさしい」というのは、決して弱さと結びつくものではありません。

先日、新曲の仮歌をツイートしてくださったときの「必ずお届けするので」といい、
今日更新されたブログの「またお会いしましょう!」といい、昨今の不安定な状況のなかでも未来の希望を曇りのない言葉選びで本人の口から聞けたことで、ファンはすごく安心できると思います。
少なくとも、わたしはそうでした。

これはいろんなところに気を配っていて、その場面に適した言葉を正しく選べる壮馬さんだからこそできる言葉遣いだな、と思います。

壮馬さんに会いたいな。
そう口に出すことも、今ならなんだか許される気がして。
イヤホンから聴こえてくる「また会おうよ」も、背中を押してくれているのでしょうか。


あなたの言葉でどれほどの人が救われるか、たぶんあなたは知っているけど、知らないでしょう。
だから伝えたい。
あなたの言葉に、いつも救われています。ありがとうございます。

わたしもいつかあなたのような、強くてやさしい言葉で誰かを救えるような、そんな人になりたいです。


壮馬さんがくれる言葉、気持ち、見せてくれる世界、そしてわたしが壮馬さんに向ける気持ちもそれと同じくらい、大切にしたいです。

そして「好き」という、曖昧で不確かで不安定な気持ちを、わたしに何度でもはっきりと実感させてくれるあなたという存在を、今まで以上に大切にしたいです。

わたしは今、あなたのことを好きでいられて、ほんとうに幸せです。


永遠も、たしかなものも、この世界にはないのかもしれない。
それでも、このときを閉じこめて永遠に仕立てあげたいと願うくらい、これからもずっとあなたのことを好きでいたいと思っています。


いつもたくさんの気持ちを、言葉を、景色を、ありがとうございます。
29歳が、あなたにとって素敵な1年になりますように。

これからも応援しています。
大好きです。

いのちの「最果て」で、ふたり

初めてブログを書くので、どうぞお手柔らかに。


「フィッシュストーリー」からはじまり、1stアルバム「quantum stranger」そして1stEP「my blue vacation」を経て「エピローグ」で締めくくられた、アーティスト斉藤壮馬さんの1.5章。

今までは思ったことをTwitterでぽつぽつ、と断片的につぶやくだけだったのですが、フォロワーさんのなかにはブログを書かれる方もいて。
いつも楽しく拝読していて、すごいなあ、わたしもやってみたいなあ、と常々思っていたこともあり、ようやっとブログを開設しました!わあい!

ということなので、「フィッシュストーリー」~「エピローグ」という一連の作品群について、感想以上考察未満ではありますが、つらつらと綴っていきたいと思います。
あくまでもいち個人が感じたことですので、こんな考え方の人もいるんだなあ、くらいの気持ちで読んでいただけると幸いです。
では、さっそく本題へ。

物語の「軸」となるもの

デビュー曲「フィッシュストーリー」から、先日配信限定でリリースされた最新曲「エピローグ」まで、シークレットトラックや既存曲のアレンジver.なども合わせると、全26曲。
そのすべてがそれぞれに物語性をもち、ストーリーテラー斉藤壮馬の目線から語られている。
その中でも、「フィッシュストーリー」「ペンギン・サナトリウム」そして「エピローグ」。
ここでは、この3曲が「アーティスト斉藤壮馬の1.5章」と銘打たれた物語たちにおける大きな軸である、と仮定する。
そして今回は、主にその3曲の関係性について考えていきたい。


「フィッシュストーリー」

登場人物は「君」と「僕」。

1078号室 病室の部屋の中
起きてはまた寝て 退屈そうに窓の外を見てた *1

「君」は、1078号室で生活をしている。
病室でほぼ寝たきり、なにか安静にしておく必要のある病を患っているのだろうか。

偶然そこで出会った二人って もはや運命かな
君の代わりに外の世界を話してあげよう *2

そんな「君」と偶然出会ったという「僕」。

全然眠れない そんな夜更けには
ちょっと抜け出して 屋上に咲く声ふたつ *3

「僕」も「君」と同じ場所で生活している。
ということはつまり「僕」も何かしらの病を患っていると考えられるが、病室のベッドから外の世界を眺める「君」を見ている描写があることから、「僕」の抱えているものは「君」のそれよりは軽度のものなのだろうか。
自由に外の世界を見に行くことができない「君」の代わりに「僕」が、外の世界について話してあげよう。
たとえそれが他の誰かに小馬鹿にされるような作り話でも、「君」が笑顔でいてくれるのならなんだって構わないから。
今日も世界中に転がっている汚い言葉に魔法をかけて、純粋でピュアな何も知らない「君」を綺麗な嘘で喜ばせるよ。
フィクションであっても覚悟をもって*4、「君」に言葉を伝えよう。


「ペンギン・サナトリウム

登場人物は「ぼく」と「きみ」。


ここでは、この楽曲は「フィッシュストーリー」における「君」の目線で描かれた物語であると考える。
つまり、

「フィッシュストーリー」の「君」=「ペンギン・サナトリウム」の「ぼく」
「フィッシュストーリー」の「僕」=「ペンギン・サナトリウム」の「きみ」

ということだ。


歌詞に「氷の街」「よちよち歩き」といった言葉が散りばめられていることから、
”翼があるのに飛べない鳥であるペンギン”と、”サナトリウムにいて自由に外の世界を見に行くことができない「ぼく」”を重ねあわせていることがわかる。

雨降る夜の病室でいつでも独り、夢を見ていた「ぼく」。
そして「ぼく」の前に現れた「きみ」もまた、いつでも独りで。
そんな「きみ」は「ぼく」に笑って、と言い、外の世界のことを話してくれる。

ここは
たぶんにせものなんだ
きっと
明日起きたらきっとね
それでも
よちよち歩きだって
魔法のような夜さ *5

「ぼく」は、「きみ」が話してくれることが嘘(=にせもの)であることを、何となくだが分かっている。
夜が更けて朝がくれば、魔法が解けてまたベッドの上で過ごす一日が始まることも。
それでもせめて、今だけは。
夢を見て、外の世界をその目でたしかめて、街を出て・・・
「ぼく」らはいつでも独りだけど、さみしくはないよ。ペンギンみたいに飛べない鳥とおなじ気持ちでふたり、歌うから。
1078号室には、今夜も七色の虹がかかる。


「エピローグ」

登場人物は「ぼく」と「きみ」。


「ペンギン・サナトリウム」から視点が変わり、

「フィッシュストーリー」の「君」=「エピローグ」の「きみ」
「フィッシュストーリー」の「僕」=「エピローグ」の「ぼく」

となる。

何ごとも”永遠”ではなくて、いつかはかならず”終わり”がきてしまう。
「ぼく」とサナトリウムで偶然出会った「きみ」との旅もまた、その運命の渦中にある。

ねえ 気づいてる?
ふたりは 共にこの身朽ちかけ
エンドロール後の闇を
前向きに進みはじめてる *6

ふたりの死によって、魔法のような日々は終わりを迎える。
ひとの一生をひとつの物語とするならば、エンドロールは人生を振り返る走馬灯、といったところだろうか。
つまり、「エンドロール後の闇」というのは死後、また新たな命に転生するまでの間のこと。
その時間を前向きに歩みはじめたふたりには、きっと来世のはじまりが近づいているのだろう。

ねえ それはそうと
次会えるなら どんなかたちでだろうな
心配 ないよ きっと
すこし永めに眠るだけさ *7

最果てまで歩いていたら
きみがさみしそうに笑った
しめやかに 雨が肌を濡らしたんだ *8

今世のいのちの「最果て」まで、共に歩いたふたり。
「永めに眠る(=永眠)」や「しめやか(葬儀が営まれているようすを描写することが多い言葉)」など、死を連想させる言葉がこの辺りの歌詞には見られる。
「きみ」がさみしそうに笑うのは、生まれ変わることが今世でのふたりの別れになるからだろうか。
そんな「きみ」に対して「ぼく」は、心配ないよ、どんなかたちであろうとまた会えるよ、と、かなり前向きに語りかけている。

ねえ そろそろかなあ
なにして遊ぶ? 答えずに佇んでる
きみは なぜか どこか
ここにはいないような眼をしている *9

「ぼく」が語りかけるも、どこか上の空な「きみ」。
どうやらそろそろ、「きみ」が転生することによる、ここでの別れが近づいているのだろうか。

ねえ 白昼夢の中
じゃれあったね 氷の上 裸足で *10

ただの夢ではなく「白昼夢*11」であることや、「氷の上」という言葉が「ペンギン・サナトリウム」を彷彿とさせることから、この部分はふたりが生きていたときのことを回想していると考えられる。

最果てまで歩いていたら
きみがうれしそうに笑った
なんでかな ふいにときが 止まったんだ
風が吹いてまたたいたら
きみはもう気配だけ
それじゃ、ばいばい?
やだ *12

うれしそうに笑った「きみ」。
ふと風が吹いて瞬きをしたら「きみ」の姿は消えて、気配だけが残っていた。
それを見て「ぼく」は、「きみ」との別れの時がきてしまったのだということを、いやでも理解してしまう。
この描写はあまりにも儚くてせつないものだが、「ぼく」が最後に目にした「きみ」が心から笑っていたことが「ぼく」にとっての救いであり、ふたりの物語が来世へとつながる希望であるとわたしは感じた。
そして、先ほどまでは転生することに比較的ポジティブな感情を抱いているように見えた「ぼく」が、ここでは「やだ」と本音をこぼしている。
この部分にどうしようもなく人間味を感じ、非常にぐっときたという方も多いのではないだろうか。このブログの筆者もその一人である。

さあ 黄昏のファンファーレだ
この悲喜劇こそカーニバル 舞いあって
薄紅にけぶるかな
エピローグのその先へ
光が 花になっていく *13

ここで「黄昏」「薄紅」といった色を連想することのできる言葉がはじめて出てくる。
また、「ファンファーレ」「カーニバル」といった祝福ムード漂う言葉や「エピローグのその先へ」から、この場面で「ぼく」は転生へと向かっていることがわかる。
躍動感のあるストリングスからは、溢れんばかりの生命力を感じとることもできる。

最果てまで歩いていたら
影がまぶしそうに笑った
しめやかに 雨が肌を包み込んでいく
幕が下りた芝居ならば
新しいプロローグへ
それじゃ、また
会おう
会おうよ *14

自分よりも先に生まれ変わって消えてしまった「きみ」の実体はもういないけれども、確かにそこにいたことを証明するかのように揺れる影が光に照らされて、そのまぶしさに目を細めたように見えた。
今世でのエピローグを終え、そして新しいプロローグ、来世のはじまりへ。
心配ないよ、どんなかたちであれ、「きみ」と「ぼく」はきっとまた会えるよ、会おうよ。

ストリングスのみの切ないイントロからはじまり、明るく爽やかで救済すら感じられる壮大なアウトロでクライマックスを迎えるというこの曲の展開は、何度聴いても心を揺さぶられる。本当に・・・良すぎる・・・(語彙の限界)

「エピローグ」アウトロ後

まだ!!!この記事は終われない!!!
ここからは、「エピローグ」が感動的に締めくくられたあとに聴こえる雑踏に思いを馳せていきたい。
街の雑踏は6:13から聴こえはじめ、トラックが終わる6:27までのおよそ14秒間にかけてフェードアウトしていく。

だが、それだけではないのだ。

わたしのTwitterのタイムラインには天才が数多くいるのだが、そのうちの一人が、
「6:20あたりで、人間の息遣いのような音が聴こえる」
というのだ。気になって確認してみると、なるほど確かに人間が息を吸って吐く、いわゆる深呼吸をしているような音が聴こえたのだ(何それマジかよ!と思った方は、ぜひ今すぐ聴きにいってほしい)。
さらに言うとそれは6:17あたりから次第に足音が近づいてきて、深呼吸をしたのちに走り出す足音が遠ざかっていく、という一連の動作を感じさせるようなものだった。

この深呼吸は、いったい何を意味しているのだろうか。
このことについてはじめて知った当時のわたしは、最果てまで歩いた「ぼく」がいったん立ち止まり、そこからまた新たな希望へ向かって歩き出したのだろうか、と解釈していた。
しかし、この記事を夢中で書き、ラストスパートに差しかかっている現在のわたしには、生まれ変わった先の来世を生きる「ぼく」が、おなじく転生し来世を生きている「きみ」をたくさんの人が行き交う街中で見つけて、走り出しているようにも思える。

みなさんの中のふたりは、いったいどんなエピローグを迎えたのだろうか。ぜひ、いろんな人の解釈を聞いてみたいものである。


最後に

アーティスト斉藤壮馬さんの作品について自分が感じたことをなにか記録に残したい、という一心でブログを開設してPCに向かい、今こうして記事をひとつ書きあげられたことに内心ほっとしています。
この記事を読んでくださったあなたに、すこしでも有意義な時間を過ごせた!と思っていただければ幸いです。
ブログを書くのがはじめてだったもので読みづらい部分もあったかと思いますが、これからもなにか書きたいことができたときにゆるりと更新していければいいなと思っておりますので、ぜひよろしくお願いいたします!
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

*1:斉藤壮馬の楽曲「フィッシュストーリー」より

*2:斉藤壮馬の楽曲「フィッシュストーリー」より

*3:斉藤壮馬の楽曲「フィッシュストーリー」より

*4:斉藤壮馬石川界人のダメじゃないラジオ #38内での斉藤壮馬の発言より

*5:斉藤壮馬の楽曲「ペンギン・サナトリウム」より

*6:斉藤壮馬の楽曲「エピローグ」より

*7:斉藤壮馬の楽曲「エピローグ」より

*8:斉藤壮馬の楽曲「エピローグ」より

*9:斉藤壮馬の楽曲「エピローグ」より

*10:斉藤壮馬の楽曲「エピローグ」より

*11:非現実的な空想。また、現実から離れて何かを考えている状態。コトバンクWikipediaより引用。

*12:斉藤壮馬の楽曲「エピローグ」より

*13:斉藤壮馬の楽曲「エピローグ」より

*14:斉藤壮馬の楽曲「エピローグ」より